時評集 白日のつぶて

獏 不次男

¥1,760 (税込)

酔浮人・夢酔庵主人こと獏不次男がところかまわず、“つぶて”を打ちつつ行脚する当世「人の国」の旅行記。からくち時評「つぶて」、時事随想、文化時評(陸奥新報)から、ちょいと濃口のエッセイを収録。

商品カテゴリー:

商品詳細

  • 製品番号:ISBN 978-4-89297-108-2
  • 内容量:243頁
  • サイズ:四六判(130) [130×188mm]
  • 発売日:2007年06月20日
  • 版 数:初版

説明

「あとがきにかえて」より

 石打ち(飛礫(つぶて)打ち・印地(いんじ)打ち)

 昔、弘前ネプタの側面には「石打ち無用」の大文字が例外なく書かれていたが、それはとりもなおさず運行中のネプタを狙って投げられる石が如何に多かったかを物語っているに他ならない。

 弘前ネプタが全国的に有名になり、観光客が訪れるようになって、運行日時に従って整然と合同運行が行われるようになったのは極く近年のことである。

 戦前は、ほとんど町会ごとに他町と競い合って作ったネプタを、それぞれ自由勝手に運行していたのである。

 企業とか役所や学校等が大きな予算を組んで大型ネプタを制作するような現在とは違い、町内の各家から何がしかの心付けを募って作り上げたものだけに「自分達(おらほ)の」ネプタという意識は、現在とは比べものにならないほど強かったはずである。

 運行中に他町のネプタと出会えば、今では想像も及ばないほど狭かった街路では、お互いのネプタがすれ違うことなど出来ようはずはなく、ましてや自分たちが退(しりぞ)いて、相手に道を譲ることなど思いも寄らないことであった。津軽のジョッパリ精神がむくむくと頭を擡(もた)げる。その成り行きがどうなるか? およそ想像出来よう。

 何しろ、ネプタは年に一度の夏祭である。大抵は常識人として知られている町会長や、物分かりのよい町の旦那衆とか、普段温厚篤実(とくじつ)で争いごとを好まぬような大人達も、精神状態は明らかに平常とは異なっていて、運行に先立って景気付けに酒を飲んでいる者も多いから運行する行列全体の気勢はいやが上にも盛り上がっている。

 日頃何かと鬱憤(うっぷん)を抱いている者に限らず、血の気の多い若者達の多くは、この祭期間中だけは、大人たちからたいした干渉も受けずに、おおっぴらに暴れることの出来る絶好のチャンスであり、旧城下町の名残で方々に在る撃剣場や剣道場に通っている若者にとっては、腕試しにはもってこいの機会でもある。

 さて、鉄砲伝来以前の日本の合戦に於いては、華やかな鎧(よろい)兜(かぶと)を着飾った騎馬武者がぶつかり合う前に、先ず矢合わせがあったと聞くが、細い道でネプタが出会った際、その矢合わせに相当するのが、一種の飛び道具とも言える「石打ち」だったのである。

 当時ほとんどの街路は舗装されていなかったから、投げるための小石は道にふんだんにあった。たいした飛距離はないが、竹ヒゴに紙貼りの大きなネプタ灯籠(とうろう)の破壊にはかなり効果的で、折角描かれた武者絵は、肝心要(かなめ)の場所に大きな穴が開けられたり、ひどい時には絵が破けてしまう。運が悪ければ、ネプタの光源として内部に点されたローソクが倒れて炎上することさえあったのである。 

 ところで、飛び道具としての 「石打ち」は、津軽独特のものではない。

 上方では五月五日の端午(たんご)の日に、河原や海辺で沢山の子供達が二手に分かれて小石を投げ合い、勝負を競った遊びを「印地(いんじ)打ち」とか「石合戦」或いは「飛礫(つぶて)合戦」と称したが、実はその始まりは、大人達が正月にその年の豊凶を占って行った行事だと言われている。

 「つぶて」には、人を死に至らしめる程の威力はないが、名手ともなれば、鎧や防具の隙間を衝(つ)いて相手を怯(ひる)ませることも出来ただろうし、つぶてに打たれて暴れた乗馬から振り落とされた結果首を刎(は)ねられたり、目を狙い撃ちされたために敢えなく討ち取られた武将も居たに違いない。

 飛び道具としての利用価値は十分にあったと考えられる。武器として十分に利用価値があり、効果があったとしても、所詮(しょせん)は雑兵や戦(いくさ)忍(しの)びが用いる武器に過ぎなかったから、「つぶて打ち」として世に名を残すほどの者はいない。    

 しかし、闇夜に狙い打ちする「つぶて」は姿が見えず防ぎようがないから、ちょうど悪質ないたずら電話や、コンピューターにウイルスを撒(ま)き散らす奴らとか、自分の身を安全圏に置きながら内部告発をする者に似て、実に不気味で厄介(やっかい)な代物(しろもの)には違いない。

 この書の題名を、敢えて『白日のつぶて』としたのは、闇に隠すという卑怯な真似はせず、自らを白日の下に晒して「風刺のつぶて」を飛ばしたかったからである。

 本当は、『ガリバー旅行記』を書いたスウィフトのように、読者に面白く読んで頂いて、実はそれが、筆者を含めて人間全体に対する痛烈な風刺となり、しかも一般読者には気づかれないようなものにしたかったのだが、筆力が及ばず目指したように書けなかったのが残念である。

 腹の中では憤怒の想いがあっても、ひょっとこのように、おどけた表情で、ユーモアに富んだ文を目指すのが、筆者のせめてものことであった。

 『白日のつぶて』は、陸奥新報の「からくち時評~つぶて~」として連載されたものを、

 Ⅰ 雷親父とこんにゃくパパに、「時事随想」として連載されたものを、Ⅱ 双つの顔とし、それに「文化時評」として連載されたものを、Ⅲ 月に祈るとして加えて、成っている。

 さて、記憶というのは実に妙なもので、遠い過去の出来事でありながらはっきりと覚えているものもあれば、極く最近のものでもすっかり忘れているものも多い。ただはっきり言えることは、記憶も距離の遠近法に似て、近いものは大きく見え、遠く隔たったものは小さく見えることである。

 世間を大いに騒がした事件でも「人の噂も七十五日」という譬えもあるように、余程のことでもなければ、忘れ去られてしまう。

 今回この書を編むにあたって、逆編年順に並べたのは、絵画の遠近法を取り入れたからである。

 筆者はいつも締め切り日に原稿を入れるから、それぞれの文末に記した日付の頃に、どんな出来事があって世を騒がし、それに対して世間はどのように反応し、筆者はその時どう感じたか、そして読者の皆様は、どうなさっていたかなどということを思い出す縁(よすが)ともなれば幸いである。

 それにしても、一九八七年八月だから、指折り数えてみるとおよそ二十年も前のことになるが、「文化時評」で、~金沢の文学館をみる~と題し、旧市立図書館の移転と文学館の建設を訴えたことがある。それが現実のものとなって立派な姿を見せていることや、「からくち時評」や「時事随想」で繰り返し述べて来た~文学都市・弘前~がいよいよ形となって現れ始めたのを目前にして、感無量というところである。~古き良きもの~の尊重、つまり史跡や建造物だけではなく、地名や無形の文化財を保存しようという空気も、最近では市民共通の思いになったように感じられて大変変嬉しい。

 夢は必ずしも全て叶うとは限らない。夢が壮大であればあるほど、時には大ぼら吹きと謗(そし)られたり蔑(さげ)すまれたりすることがある。しかし抱いた夢は、たとえその時点では嘲笑されるものであっても、愚直にしぶとく抱き続けていると、いつかは実現する可能性がある。逆に、夢にも見ないことは、決して実現することはない。

 筆者は、かつて「むうぞく」という同人誌を主宰していたことがある。その時、挿絵やカットを他にはない独特な風合いのものにしたいと考えて、数人の書家に協力をお願いしたことがある。

 それぞれ、ご自分の作品を書くのにも多忙な方達にもかかわらず、毎号毎号、面倒な注文に嫌な顔も不満も見せずに依頼を引き受けてくれたご恩を忘れることはない。

 いつか、著書を出版する際には、その方々に題字をぜひお願いしたいとひそかに心に決めていた。

 東奥日報社刊の小説『津軽太平記』は鎌田舜英さんに、そして今回の随想集『白日のつぶて』は小山内光琇(王へんに秀)さんにお願いしたが、いずれも快くお引き受け頂いたこと、大変ありがたく、この場を借りて厚くお礼申し上げます。

著者略歴

獏 不次男(ばく・ふじお)

本名、阿部次男。昭和九年(一九三四)、青森県弘前市生まれ。
元弘前高校校長。弘前ペンクラブ会長。
「長安の夢」で第五回歴史文学賞最終候補となる。
著書に、詩集『謎問う標識』(津軽書房)、『秘密の小函』(北の街社)、『花ものがたり』(緑の笛豆本の会) 小説『風まつり』(路上社)、『津軽太平記』(東奥日報社)、『津軽隠密秘帖』(河出書房新社)、新版『津軽太平記』(河出書房新社)、『元禄妖犬伝』(河出書房新社)などがある。

装丁

題字:小山内 光琇(王へんに秀)
デザイン:今 雅稔

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