商品詳細
- 製品番号:ISBN978-4-89297-101-3
- 内容量:210頁
- サイズ:A5 [148×210mm]
- 発売日:2006年11月10日
- 版 数:初版
¥1,980 (税込)
評伝・古賀政男を著した筆者が、孤高の歌手 東海林太郎にせまる。秋田に生まれ、早稲田大学、満鉄を経て子どもの頃から好きだった歌で身をたてるに至る、強い意志と努力、その盛衰のドラマ。
東海林太郎が昭和一〇年前後、一連のヒット曲によってスターダムに登りつめた頃は、 モダニズムの反措定としての日本回帰という時代潮流が目立ちはじめた時期である。 外来と伝統という二重文化のなかにあってその時代思潮が東海林の姿に投影されたのかもしれない。 そう考えるならば、クラシックへの憧憬という言葉では簡単に片付けることのできない 彼の精神内部に宿る何かがあったと思われるのである。
昭和四七年一〇月四日午前八時五〇分、東海林太郎は、波瀾に満ちた生涯を閉じた。享年七三歳。 当時、新聞、テレビでは大々的にその死を報道していた。 音楽的にどうということよりも、その生き方、直立不動にこめられた歌魂の賛辞が圧倒的だったような気がする。 東海林ファンはそのような報道に不満であったようだが、一般の人々にとっては波瀾に満ちた生き方、 少年だった私の眼には滑稽にしか映らなかった直立不動の精神と歌唱道の方に関心がもたれていた。 東海林太郎と同時代の歌手藤山一郎(声楽家増永丈夫)はクラシックの香りを持ち、音楽家としてのイメージを感じさせたが、 晩年の東海林太郎は、全盛期から比べるとかなり衰えが見えており、音楽的なアピールを求めることには無理があった。 若き日の澄んだ美声を知る往年のファンにとっては無念であったに違いない。
東海林太郎は、青年時代、大衆音楽とは無縁だった。 音楽と学問、マルクス主義の佐野学への師事、満鉄入社、「満州に於ける産業組合」の著述など、 この経歴からは昭和歌謡史において燦然と輝いた東海林太郎の姿はとても想像できない。 安田講堂の炎上、三島由紀夫の割腹事件、浅間山荘事件、「総括」の名のもとに行われた連合赤軍内のリンチ事件など、 七〇年前後の騒然とした世相のなかで、私が少年時代に見た東海林太郎のイメージとその実像があまりにも異なっていたのである。 燕尾服にロイド鏡、パーマがかかった白髪のホワホワ髪、また、晩年の歌い方は語尾が上下に動きながら独特のバイブレーションが特徴だった。 しかも、微動だにしない姿勢で歌うので、巧いのか下手なのかよくわからなかった。 だが、大正デモクラシーから昭和という激動のうねりのなかで、 彼は、学問―頭脳エリート―クラシックへの志向―大衆歌手という人生の転向を遂げているのである。 それは、東海林太郎自身の単なる冒険心からではなかった。
東海林太郎を流行歌手へと歩ませたのは一体何なのか。 そして、まるで剣豪のような正眼の構えともいうべき直立不動を貫いた精神の根底にあるものは何であるのか。 エリート社員の挫折、クラシックの夢が敗れた男のそれにしがみつこうとする執着というような 皮相的な見方では片付けられない何かが存在するのではないかと思う。 しかも、私の少年時代には滑稽・奇異にしか映らなかった姿の奥底には間違いなく今の日本人が忘れた精神があると思われるのだ。 したがって、この東海林太郎物語では、東海林太郎の歌謡芸術へのアプローチという視点もさることながら、 むしろ、直立不動の姿勢を貫いた彼の精神史が主題となるのである。
菊池清麿(きくち きよまろ)
1960年、岩手県に生まれる。明治大学大学院修了(学位・修士号)。専門は音楽メディア史、近代日本流行歌史。
主要論文: 「明治思想史の一断章―明治近代主義と柳田国男・民俗への志向」(シオン短期大学研究紀要34、平成6年)、「流行歌に見る昭和モダニズムの精神風景」(シオン短期大学研究紀要36、平成8年)、「近代日本と流行歌における一考察」(シオン短期大学研究紀要37、平成9年)、「昭和SPレコード歌謡産業発達史―その黎明期における一考察」(メディア史研究第14号、平成15年)、「近代日本と古賀メロディーの心情」(メディア史研究第16号、平成16年)、他。
主要著書: 『藤山一郎歌唱の精神』(春秋社刊、平成8年) 『評伝・古賀政男 青春よ永遠に』(アテネ書房、平成16年)他
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